【内容】
西洋哲学における精神性至上主義とその限界
東洋哲学における身体性実践主義
1.西洋哲学における精神性至上主義とその限界
キリスト教には伝統的に、精神的なものと身体的なものを区分し、二つの原理は、元来対立しているという考え方がありました。
それを哲学的に位置付けたのが、17世紀フランスのデカルトで、「我思うゆえに我あり(物心二元論)」と唱え、世界を精神と物質とに分け、精神を人間だけが持つものとして、物質(身体)よりも高く位置付けました。
デカルト以降の西洋哲学では、言葉で確かな「ある」を積み上げてきました。主体と客体を分離した二元論的で、要素分解的な思考によって真理を追求しようとします。
そして近代科学に基づく近代医学では、病気を身体組織のトラブルと捉え、治療とは手術や薬物投与によって、そのトラブルを取り除くことであると考えられました。
しかし19世紀末に、オーストリアのフロイトによって「心身の相関性」が唱えられ、神経症、心身症、自律神経失調症などの病気への対応が見直されます。
一方で環境問題の深刻化は、近代科学における自然(=物質)と人間(=精神)を切り離して考える「二元論」に対して見直しを迫る事になりました。
このような状況を経て20世紀に入ると、ようやく哲学を中心に、新しい「身体観」を模索する動きが活発になるのです。
2.東洋哲学における身体性実践主義
西洋哲学は、数学に代表される論理的思考を前提として、世界の本質を言葉で理論的に解明しようとしましたが、東洋哲学は、論理的整合性より、「いかに生きるか」「いかに体得するか」という実践に重点が置かれてきました。
東洋哲学には「八識」という概念があり、言葉にできないけれど大切なものがあるとされました。五感に加えて、意識、末那識(まなしき:自我意識)、阿頼耶識(あらやしき:宇宙万有の根源とされる精神的主体)などが定義されています。
日本仏教では、天台宗に代表されるように、「修行」が重視されます。様々な修行法が体系化されていますが、基本的には、「常座三昧(=座り続ける事)」と「常行三昧(=歩き続ける事)」に分けられます。
「動中の静」と言われ、身体運動の繰り返しが「瞑想」、つまり雑念を払って静かな境地に入る為の手段として使われることになります。
このような禅の修行における身体で覚え込む体得の思想は、武道や芸の道でも稽古に取り入れられるようになります。室町時代初期に世阿弥は、「風姿花伝」において、「心」の動きと「身体」の動きを一致させること「心身一如」が、能の稽古や修行の根本であると書き残しています。
このように「西洋の精神性至上主義」の限界が、共有された現代において、元々日本に根付いていた「東洋の身体性実践主義」から、都市・街づくりを見直す必要があるのではないでしょうか?
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