近年の都市公園は、P-PFI や立体都市公園など「手法」の議論ばかりになってしまっています。財政難の中で、とにかく整備・管理コストが必要なことは理解できますが、なんのための公園なのか?次世代の都市公園に誰が何を求めるのか?という根本ニーズが置き去りになっている気がします。これまでの考察の中で「①新たな整備・管理コストの捻出」の他に、コロナ禍に伴う都市のあり方の中で「②新たなユーザー、利用ニーズへの対応」、禁止事項ばかりの公園にしないための「③近隣住民の理解と支えが不可欠」、より上質な環境サービスの提供のための「④公園とテーマパークとの中間的な半主体性、費用分担の容認」、そしてこれらの要因をバランスさせる「⑤柔軟な運営スキルの獲得」などの課題が浮かび上がってきました。
禁止事項の増加、安易な消費行動の浸透、周りと足並みを揃えた行動様式などはいずれも社会が効率化・合理化を追求した結果、陥ってしまっている思考停止状態と言えます。今必要なスタンスは、少し乱暴かもしれませんが、「都市で暮らす作法と工夫:新しい公共のあり方」を考える事と総括できるのではないでしょうか?「都市公園の未来」というテーマは、官まかせではなく、タダ乗りでも搾取でもなく、どのように支えあうのか?という「新しい公共」の教育機会でもあると考えます。
公園は道路や河川のように確たる用途が無い分、最もソフトな公共空間だと言えます。それだけに公園に関わる人たちの民度によって如何ようにでも、整備・運営の方針が設定可能になります。誰も何にも使えない空間にするのか?ショッピングセンターの中庭のようにするのか?あるいは都市のリビングのような場所にするのか?は関係者次第と言えます。
公園はコロナ禍を経て、オンライン1st時代のリアルな都市の価値を方向付ける、大きな存在になると考えます。単に芝生や樹木があるだけでなく、子どもの遊具があるだけでなく、これからの都市のユーザーであるワーカーやプレイヤーの、生活の質を高めるための設えが求められ、その実現・継続のための関係者の理解と支えが不可欠になります。
オンライン1st時代の交感・発信活動は、予定調和的でプレーンなホワイトキューブ環境で行うよりも、自然の変化とともにセレンディピティと感動に溢れた環境の方が効果的です。つまりオープンな都市舞台の方が、高い価値を獲得することが可能です。都市ユーザーが輝き合える機会として、都市公園が成立するとき、「新しい公共」が結晶化して見えてくるのでは無いでしょうか。
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