【内容】
戦国時代に新興する日本の都市化
江戸の発展
東京としての発展
1.戦国時代に進行する日本の都市化
日本の都市は「平城京」や「平安京」などの都に始まります。
「平安京」は、貴族とその生活を支える庶民からなる約10万人の都市として遷都されました。
主に地方からの届け物や特産品で支えられたため、その収入は朝廷の権威によって増減し、不安定で、都はずれの8条、9条あたりは、非常に廃れていたといいます。
都市化が本格的に進むのは、戦国時代末期から江戸時代にかけてになります。
「刀狩」を契機とした「兵農分離施策」によって、武士階級を城下町に居住させる一方で、農民は村請制度によって、土地に縛り付けられるようになります。
武士階級と、その再生産に奉仕する商工業者を領主の城下に集住させる城下町(封建都市)の建設は、日本的都市の特徴といえます。
封建都市は、幕藩領主の政治的・軍事的な必要性によって、計画的に建設されました。
領主の本城を中心にして、家臣団の屋敷割エリアと、商工業者が住む町割エリアとが有機的に統一されています。
2.江戸の発展
江戸幕府の本拠地として建設された「江戸」は、本質的には城下町で、江戸城外郭内の武家地と、埋め立てて開発した町人地とで構成されていました。
燃えやすい材質でできた建物が密集した江戸では、一度建物に火がつくと、消火活動を行う間もなく、火が広がりました。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉通り、江戸では「大火」が頻発(約50回)し、広大な市街地を繰り返し焼き払ってしまいました。
度重なる「大火」による新都市計画を契機にして、江戸はその都市域を、不規則に郊外に拡大していきます。
武家屋敷や寺社が、城郭外へ移転・分散していくと、それと共生関係にある町屋や門前町も新設・再配置していきます。
江戸は人口100万人に及ぶ「多心型城下町」として拡大・発展していくのです。
3.東京としての発展
明治維新を経て、東京と改称されてからも、「無血開城」された江戸の多心型城下町としての骨格は、残されます。
近代国家としての体裁整備を急ぐ政府は、根本的な都市改造には手をつけずに鉄道や港湾整備を急ぎます。
山手線などの鉄道建設の経緯を見ても、「我が土地」に対する執着と、公共公益に対する拒否感が見て取れます。
そんな中で、郊外部では民間による「田園都市計画」が試みられます。
渋沢栄一が主導した田園調布の他にも、東京では、日吉、多摩川学園、成城、国立が造成され、関西でも阪神間にいくつかの住宅都市が計画されます。
都市部で、住民の協力を得ながら再開発するよりも、新しい郊外開発の方が、手っ取り早かったのでしょう。
このように日本の都市建設は、市民による自律志向ではなく、時の権力によって推進されてきました。
その都市形態も、城郭内でコンパクトシティを形成するのではなく、郊外に拡大・展開していきます。
自ずと「都市暮らし」の心得として「個人の制限を許容」ではなく、公共は「お上」のものである反面、「敷地内では自由」という風土が根付いてしまいました。
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